自然配植とは


日本の伝統技術+生態学=自然配植緑化


 自然配植は、自然のもつ豊かで多様な力をうまく生かしながら緑を創造し保全する技術です。

 自然環境の危機が叫ばれるいま、わたしたちは、地球人としての視野をもち行動することが求められています。緑づくりにおいては、造園・造林・土木業界のもつ伝統の技術や生態学の知見が、 自然とのつきあい方とわたしたちのあり方に多くの知恵をもたらしてくれます。

 自然配植は、未来につながる緑化として、その技術や考え方、知識の整理・統合を進め、さらなる技術の発展に努めています。

◆自然配植の思想から技術へ◆
■自然配植緑化の「自然配植」とは、自然の「ありよう」に学ぶという意味です。自然配植とは、「いのち」としての植物の「立つ瀬」と、ともに生きようとする人間の「立つ瀬」を考える緑づくりの考え方と技術がベースとなっています。

◆苗木を中心に◆
■自然配植による緑化では、苗木を使い、美しさと育ちを考えながら、密に、あるいは疎に組み合わせて、緑はつくられます。

◆樹林化技術としての自然配植◆
■既往の樹林化工法では陥りがちな単純な同齢林とは異なる群落を志向しています。つまり、自然配植では、異齢林と呼ばれるさまざまなサイズの樹木が共存できる複相性、モザイク性の高い群落を美しく配置することが基本です。全面を一様にすばやく樹林化させるのではなく、百年後の森の姿をイメージし、実現することを大切にしています。

◆従来の造園工による緑づくりとの違いその1〜小さな苗木を大事にする理由◆
■小さな苗木を植えると、その点でコスト縮減が図れるほか、近年話題となっているCO2吸収源としての能力が高く、環境改善に貢献することができます。

◆従来の造園工による緑づくりとの違いその2〜造園から離れ、造園へ回帰する◆
■わが国の造園は、千年の伝統をもち、樹木の組み合わせ、石や垣の配置などの工夫を受け継ぎ、改良しながら、自然を凝縮すること、美しさを究めることにおいて、文化のレベルに達するといえるほどの思想と技術を培ってきました。
 日本的な美意識とは遠い、シンメトリカルな、あるいは遠近法的空間構成が根幹とされた、より西洋的な美意識に基づくデザインを広く日本の緑地づくりの標準とおくことは、わが国の風土をもう一度見直す中で、反省する時期にさしかかっているのではないでしょうか。
 自然配植緑化は伝統的なわが国の造園文化への回帰であるとも考えています。

◆自然配植の適用範囲◆
■個人庭園、公共施設緑化から、自然回復を目的とするような道路法面、山腹崩壊地、ビオトープ造成などの緑化に至るまで、幅広い対象に適用することが可能です。

◆自然配植の研究◆
■自然の仕組みの研究から生まれた自然配植の研究は、生態学的に自然を観察することから始まりました。地域の豊かな生態系を形づくる数多い植物や動物が共存できる構造とその群落変化の仕組み(動態)に関心が払われています。 さらに、景観的な観点からどう見せることが美しいのか、自然環境教育的な観点から、こども達などにとって学びの多い植物群落のあり方などについても研究が進められています。

◆すべての存在に意味を見出す◆
■伝統的な造園技術の中に、「役木」という考え方があります。 「役木」とは、すべての植栽される植物に、「主」、「副」、「添え」、「根締め」などのように、一定の景観的な役割を担わせることをいいます。目立たない木や草であっても、群落の中にあっては、何らかの役割をもっており、その役割を生かす植栽方法を工夫するのが基本です。

◆生命系、地域生態系としての緑地◆
■自然配植による緑地は、当初の形は植物の変化に応じてどんどんと姿を変えていく、 「生命系」としてとらえます。変化を予測する自然配植技術は、施工時に十年後、二十年後、百年後といった緑地の姿を具体的にイメージしながら設計をします。

◆人間中心の緑づくりであること◆
■防災なのか、遮蔽なのか、収穫なのか、休息なのか、こどもたちを育むためなのか。この目的の明確化があって、そこでの自然のもつポテンシャルや、そこを訪れる人々の立ち居振る舞いを具体的にイメージする中でこそ、緑化は生きてくると考えられます。

■ムダの少ない緑づくりを自然配植は、地域のために、みんなのためにという原点から出発しています。お金が無ければ無いなりの工夫をすべきです。自然配植は、本当の意味でのプロと、市民参加という形で現れるボランティアとの共同作業としての緑化も、視野に入れています。

◆達成感の高い緑づくりのために◆
■自然配植による緑化は、歴史に耐える緑化を行おうとしています。そのためには、現場をみる力、材料を判別する力、材料を用いてすぐれた環境を生み出していく能力など高い専門性と豊かな経験が必要であると同時に、勉強を持続していく姿勢が求められます。

◆テキストのご案内〜自然配植をもっと学びたい方へ〜◆
■自然配植技能者養成講座テキスト(第1章〜第23章)                      第1章(自然配植緑化と日本の緑づくり) 自然配植技術協会 高田研一            1.はじめに  この講座は、生態学を学び、山々を歩く中で気づいてきた自然の成り立ちの豊かさと美を、人の手によって荒廃しつつある日本の風土にもう一度よみがえらせたいという願いが出発点となって2001年に始められたものでした。  幸いにも、願いの受け手、願いの広げ手となる多くの緑づくりに携わる人々を得て、これまで全国各地で、1年間の自然配植技能者養成講座という形で、この知識、技術伝承の場を作ることができました。  自然配植の基本的な考え方も、最近ではずい分と深まってきて、哲学から、経済学、環境論といった基礎理論的な分野から、自然再生、法面緑化、造園、治山、造林、環境デザインといった応用技術的な分野まで含まれる大きな視野が開かれてきています。  21世紀の百年は、それまでの百五十年で蓄積してきたプラスとマイナスの財産を整理整頓していく時代となります。この整理整頓は、社会と人々の暮らしが今以降の長い将来にわたって持続可能とするための膨大で革新的な作業です。  社会の構成員全体が納得して、この改革を広く、深く進めるための理論と技術を、自然配植と呼ぶわけですが、この自然配植技能者養成講座では、その出発点となった緑づくりとその周辺分野に特化して、人材を育てることを目標としています。  まず、自然配植という、ふつうの人々にとっては耳慣れない言葉の説明をもう一度考え直してみましょう。  自然配植という言葉は、田の造語です(田2000;自然配植緑化の基本的な考え方)。しかし、その中身の多くは、わが国の伝統技術の方々でもみることができます。例えば、造園千年の長い伝統の中で培われてきた樹木を用いる技術であり、石組みの技術としてみられます。 これらは、人々が築いてきた技術なのですが、何もないところから生み出したわけではなく、実は、誰でもが野山に行けば発見できる自然の成り立ちをみて昔の匠の人々がこれを洗練させてきました。土石流直後の渓谷の石の積み重なりと千年を経て安定な深山幽谷の石の積み重なりは、明らかに異なっていて、無駄がなく、美しく、しかも大水の発生に対しても変化することが少ない状態です。これをしっかりと観察する中で、石組みの技術は磨かれます。 同じように、自然界で、植物、森にみる圧倒的な美しさがあって、これを見よう見真似で、わが国では「縮景」という考え方で、狭い人工の空間に再現してきました。 地方には、地方独特の気候風土があり、岩の種類も違えば、その割れ方、風化の仕方も異なっています。植物や動物の種類はおろか、風やそこで暮らす人々の感受性もまた違います。その地方独特の自然のあり方を大切にするところから、自然配植は出発しようとしています。 自然から学んできた伝統技術は、したがって、地域地域の特色を生かした多様なあり方が、いま、あるいはかつては存在してきました。 一様で同質の商品を大量生産することによる利益を享受してきたこれまでの百五十年から、次の百年には、自然の原理によりうまくフィットした、多様で多元的な価値づくりを目指して、細々と残ってきた伝統を守り、あるいは新しい地域の伝統となる自然技術をつくっていくことが私たちの目的です。  自然配植の緑づくりに関しては、基本的には次の5つの考え方の上に成り立つ技術です。  @植栽ないしは播種する樹木とその組み合わせ=群落あるいは森の性質をよく知っていること   ・この木はどんな場所を求めているのか。   ・どの木とどの木を組み合わせれば、木が喜ぶか。   ・何年このまま続くのか、何年経てば、どう変わるのか。   ・いつ大人になり、どんな花を咲かせ、実を結ぶのか。   ・そこにはどんな小鳥や動物がやってくるのか。   ・すべての樹木の役割=「立つ瀬」を考えることの大切さ。  A土の性質、現場の状況をよく知っており、うまく利用できること   ・木や草はそれぞれ種類によってどんな生育環境を求めているのか。   ・「良い土」とは何か。「良い」は誤解しやすい。   ・水と土、微生物と土の関係を見直す。   ・地形や斜面の方位がもたらす土(生育基盤)への影響。   ・土の底でみえない岩盤がもたらす影響…などなど。  B美しい空間構成を実現できること   ・美しさをどう構想していけばよいかを現場条件に合わせて考えること。   ・樹木が構成する美しさとはどのような美しさがあるのか。   ・どの距離で、どの角度でみる美しさかを考えること。   ・だれが美しいと考えるのかを考えること。   ・美しさはどう変化するのかを考えること。  C無駄のない緑づくり、委ねるべきところは自然の力に委ねる緑づくり   ・質の高い緑づくりが結局は(ライフコストからみて)安上がりという発想。   ・使えるリサイクル資材、使えないリサイクル資材がある。特に二次加工コストの高い製品は、品質が良くてもうまく循環しにくいなどの難点もあり、広い目で循環のサイクルが動くかどうかを考えたい。   ・微生物、植物のもつ自然回復力を生かす。 *土壌の微生物は、どこにでも満ち溢れているが、微生物が豊かであることが、必ずしも重要であるとはいえない。第7,8,9章で考えよう。  D緑づくりに携わる者が願い、喜び、互いの役割を尊敬できること   ・計画、設計、積算、施工までの現場でかかわるすべての人達が自分の成果として誇りをもてる仕事とするために工夫が生かす。   ・対等なパートナーシップで仕事をする。   ・後輩は先輩を技能、技術の高さゆえに尊敬できるか。  これらの点は、これまでにも強調されてきた点でもありますが、自然配植は、どこが異なるかといえば、次の点です。 1)長い目で見て(数十年先以降を考えて)その地域の環境資源(緑地、公園、森林など)として価値が生まれるように、    今(現在)の時点で数十年先も含めた具体的な計画をおこなう。 2)この計画を行うために、場(立地)の性質、素材(植物、その他の材料)の性質、社会条件の変化などを具体的に把握する。  *その方法をこの講座で学ぶ。もちろん、これまでの自然の見方とは異なる点も多く含まれている。 3)場の条件、素材の性質、人の願い、条件のいずれも考慮しながら、これらを現場中心にうまく統合させる工夫が大切です。とくに、現場はすべて条件が違うため、その場その場に応じた工夫を行える専門家が緑づくりの中心になります。 2.緑化ということ  自然配植で取り扱う緑づくりの分野は、あらゆるものを含んでいます。  言い換えれば、坪庭づくりなどの小規模な造園でも、造林でも、法面緑化でも、治山でも適用することができます。  人々が樹木をいつの時代から植え始めたかはよく分かっていませんが、縄文時代の住居址の周辺からは、トチノキやオニグルミなどの食用果実を採取する樹木が多く見つかっており、植えた可能性が高いと見られます。造園は、飛鳥時代の庭園遺跡の存在が知られており、その後、歴史的な記録がよく分かっている平安時代の朝廷では、造園に携わる専門職は、すでに「木守」、「庭掃」、「庭作」に分業化されていたと思われます。  「木守」は植木の手入れや植栽などを指し、「庭掃」は見栄えを良くするための掃除、微生物環境を整え、樹木管理するための落ち葉除去、土の補充などであったろうし、「庭作」は築山や池を配置し、その中に樹木を植え込んで、デザイン性豊かに、あるときには浄土思想を表現しようという作庭家の仕事であったろうと思われます。  作庭という言葉とはやや対照的なニュアンスをもって聞いてしまう言葉に「緑化」があります。  わが国には、「緑化業界」という業界があって、「造園業界」とは別の業界を築いてきました。この緑化業界は、戦後経済の高度成長の中にあって、国土開発という名の下に山を削り、膨大な平坦地形を作ってきたときに生み出される巨大な「法面」を、自然破壊ではなく、「開発」にともなう新たな緑地として蘇らせようという目的をもった業界だといってもよいと思います。 ※莫大な公共投資によって国土開発が進められてきた過去40年間の間に、急速に拡大膨脹してきたのが緑化業界です。しかし、この業界が担ってきた緑づくりとは、生育基盤材を5cmほどに種子とともに吹き付け、牧草やハギ類の群落を急速に造成しようというお手軽なもので、「人工斜面に緑のペンキを塗るだけ」という指摘もあったほどです。  しかし、時代は今や緑化を通じて、公共原資を社会的に分配する時代は終焉を迎えようとしています。意味のあるところに、意味のある緑づくりが求められるようになってきており、全国一律一様に色を塗るように行ってきた「緑化」では通用しなくなってきています。その流れの中で、緑化業界や土木業界は、「ビオトープ」や「生物多様性」といった用語を駆使しながら、新たな緑づくりの付加価値を求めようとしてきましたが、すでにマニュアルで、どの地方でも一様な緑づくりを行おうとすることには限界があることが明らかになってきています。  こうした緑化業界の「緑化」は、狭い意味の緑化です。   「緑化」という言葉は、公園などの都市緑地の造成を含む「緑づくり」全般を指す広い意味で用いられる場合と、山崩れ跡地、伐採地、法面などの樹林が失われて裸地状態となっているところへの植生回復だけを指す狭い意味での用いられ方があります。  広い意味での緑化、つまり緑づくりにはもちろん、造園で取り扱うものも含まれます。  ただ、この広い意味での緑化は、個人、企業や社寺仏閣が行う庭作りを含めないことが多く、また、ここでいう自然配植緑化そのものは比較的メンテナンス密度の低い場所で適用されてきた事例が多かったのも事実です。しかし、自然配植の技術は庭作りの中でも十分活用することができます。それらについては、後の章で少しづつ説明していきます。 ■緑化に携わる業界  現在、緑化の施工に実際に係わっているのは、林業、造園、緑化の三業界に及んでいます。この三つの業界は共同して一つの現場に携わることもありますが、行政システムの所管の違いですみわけているようにもみえます。つまり、農水省−林野庁−各自治体林務課−林務事務所系列では、森林組合などの林業関係者が緑化=造林に携わり、国交省−各自治体土木(または河川整備、道路整備など)課−土木事務所系列では、緑化業界が大きな場を占め、修景性が重要で、維持管理コストが出る公園整備などでは造園業界が緑化を行っていることが多いようです。  これをまとめると、次の表のようになります。 表1.緑化に関わる三業界 業界 発注者 受注者 緑化手法 緑化目標 業界の態様 (1) 林業 営林署、林務事務所など 森林組合など 植樹工中心、低管理 森林回復 地域性の高い業界 (2) 造園 公園事務所など 造園業など 植樹工中心、高管理 修景 地域性の高い業界 (3) 緑化 土木事務所、国道工事事務所など 吹付け緑化業など 播種工中心、無管理 法面保護 広域にまたがる業界 上記の業界の実態は、2007年現在、徐々に変化しつつあります。  この変化を整理すれば、次のような流れに向かっているのではないかと考えています。 林業:農水省−地方自治体−森林組合の縦割り、資源分配構造は、限界にあり、技術力のある作業班を抱える実力のある森林組合とその関連会社、民間森林施業請負会社が、地方環境総合企業として、幅広い緑づくりに取り組む時代が期待されます。 造園:東京などの大都市圏と地方とでは、業界の態様が分化していく可能性があります。    大都市圏では、夏の異常高温や排ガスなどの都市気象緩和としての緑地整備と、富裕層向けの付加価値の高い造園工が主となろうし、地方では、土木や造林との境界があいまいな環境整備として、治山や林相転換も含めた緑化が中心となるのではないかと思われます。 緑化:大都市に本拠をもつ総合緑化企業は、そのマニュアル化された技術力では、地域ニーズに合致しない傾向が生まれており、一律な技術の価格競争のあおりを受けて、収益力も弱まっています。このため、緑化企業は特殊な高い技術をもたないところでは、将来は厳しいと考えています。  なお、林業は木材価格の下落による生産性の低さから、長い間の低迷期にあり、造林、間伐、林道整備などに税源を用いてきましたが、民有林を対象とした公共原資の分配には限界があり、一方、国有林の抱える膨大な累積赤字は、やがて国家財政を圧迫する要因となっています。  このような流れの中で、国土の三分の二を占める森林を一様に手入れするのではなく、コスト以上の効果(ベンフィット)が期待できる立地では、民間資金も利用しながら、積極的に観光などを目的とした林相転換を図っていこうという機運もあります。  付加価値の高い森林の育成については、この養成講座の最後に考えてみたいと思います。 ■樹林化  牧草による急速緑化を進めてきた緑化業界も、最近ではどこでも樹林化ということが柱となってきているようです。これは、近年、CO2 吸収効果、メンテナンスコスト縮減、生物多様性保全ということが盛んに言われるようになったお陰でもあります。  樹林化とは、木を植え、あるいは種子を蒔き、森をつくることをいいます。ただし、人間はこれまで自然の森のように高、中、低木からなる複雑な構造の森林を人工的に作り上げることができなかったために、森林かとは呼ばずに、少々控え目に樹林化と呼んでいると理解しておいてもよいでしょう。  森をつくることの最たるものは林業における植林です。林業では、建築資材や造船資材、燃料材、パルプなどに供する木材を得るために森を伐り開き、伐り開かれた跡に苗木を植え付けてきました。  森林の伐採後に苗木を植えることは、苗木が数十年後に至るまで役立つほどには育たないという生長の遅さゆえに、「子孫のために残す」という名の下に、間違いなく一種の美徳として考えられてきたわけです。  この美徳は、生活のゆとり、豊かさがあって初めて成り立つものであることは、テレビに時々映る北朝鮮の樹林を欠く山肌をみれば一目瞭然でしょう。繰り返される森林伐採は土壌の流亡を招き、植林しても苗木が育つには熾烈な環境になり過ぎています。  わが国でもこのような荒涼たる風景は近年まで西日本を中心にあちこちに存在してきました。その内の代表的な例として、平城京建設にともなうヒノキ伐採によってハゲ山化した滋賀県南部の山々、いわゆる湖南アルプスが頭に浮かびます。また、兵庫県の六甲山系でも長い間ハゲ山状態でした。ただし、六甲山や犬山などでは明治以降の砂防事業による植林で段切りという生育基盤をうまく作る方法で、森林が著しく回復しています。 ■林地回復基準による植栽密度と自然配植  今、法令的に定められた樹林化についての基準は、林野庁が林地回復基準として定めた2000本以上/haや各府県の林務課で定めたこれと同様な植栽密度だけです。そこで、法面でも違法造成を受けた裸地での樹林化も、お金がない場合は2000本、場合によっては3000本の苗木を植えるようにしています。  ところが、この2000本という数字は、林野庁の長年の経験で、森林表土の存在する場所でメンテナンスフリーの状態で、スギなどの高木苗木が成木年齢に達したとき、森林の林冠の植被率が 100%になるように定められた基準ですから、建設省などが行う表土がはぎ取られた裸地部分では当然条件が異なるはずです。 ただ、緑が戻ればよいという適用することは著しい問題があります。植被率が80%になっても基準だけをまったく問題ではありませんが、表土がはぎ取られている条件の下やクズなどが覆い尽くしている荒廃した群落の下では、必ずしも苗木が大きくならないことが問題となる現場を多く見かけます。  また、林野庁はスギやヒノキなどの経済樹種による造林だけを念頭に置いていますから、苗木の生長にともなう枯損率を考慮すると、現在求められている環境林としての機能、生物多様性保全としての機能を充足する低木や、中木(亜高木)を植えるだけの余地が出てこないことも大きな問題です。  植栽本数がいくら多くとも、植栽時に低木や、中木を高木とともに植栽して、これらが長い年月にわたって生き残らせるだけの理論をこれまでだれも呈示してこれませんでした。  自然配植緑化は、この意味で初めて、多様な樹種を長い歳月共存させることができる(はずの)理論です。したがって、面積当たりの導入樹種数をこれまでのどの樹林化手法よりも多く設定できます。 ※樹林化の過ち  ところで、苗木を植えることが本当にいかなる場合でも美徳でしょうか。  昭和9年に西日本を中心に大被害を与えた室戸台風は、京都でも東山三十六峰のアカマツ林をなぎ倒しました。そこで、これをみた市民が森林回復のための浄財を寄せ、この基金によって大木となって森をつくる常緑広葉樹のシイの木を一斉に植え付けたわけです。  この結果できあがった森は、森というにはこれをかたちづくる樹木の種類が少なく、同じサイズのシイがまさしく林立し、この広い樹冠が光を遮り、漿果をつける低木類が少なく、小鳥もセミも姿を見かけることは少ない。私は学生を連れ、毎年この植林によって出来上がったシイ林を歩き、やってはいけない森づくり、樹林化のお手本として教えることにしています。  しかし、過ちは、必ずしも過ちではない。逆にいえば、正しいことは実は過ちにもなるというレトリックは生態学が教え、仏教的な価値観にもみられるところです。  樹林化手法の過ちと断ずる根拠は、最終的には、 1) 人間を中心において、木材資源、観光資源、防災的資源、レクリエーション資源などの環境資源的価値があるかどうか、 2) 人間を含む生態系の観点から、多様性保全に寄与するかどうか、 の二点からの判断に基づくはずです。 東山のシイ苗木の植栽や、数打てば当たる式の苗木植栽の事例は、両方の観点からみても正しい選択であったとはどうも思えません。  このような樹林化手法の正邪の判断は樹木の生長があまりにも遅いゆえにきわめて間違いやすいものです。  一方、現在の樹林化の現場で、例えば、生長の速い先駆種に加えて生長の遅いイロハモミジの播種が行われることがある。当初、これらの稚樹、幼木は、よく共存するため、イロハモミジがやがて失われてこれが過ちの選択であったと分かるには10年を要します。ただし、よほど播種現場の生育基盤の条件さえ良ければ、これが成功する場合もありますが、そのための条件すら未だに整理されていないのが実情です。  私たちは、このような中で、作り上げる緑も作る人間も共に育つ、過ちの少ない緑づくりを進めようとしているわけです。  話を最初の造園に係る話題に戻しましょう。  これまで造園という分野での緑づくりで、かけられるコストは平米当たり数万円、場合によっては十万円以上もかけるという仕事ばかりであったと思います。そこでは、これを維持していくために多大の維持管理経費が必要とされてきました。  今、平安時代の昔の三職、「木守」、「庭掃」、「庭作」を思い出してみましょう。  作ることと維持することは、造園職として一体の業務でした。  わが国は、都市緑地面積がまだまだ不十分で、今後も行政は緑地づくりを行っていかなければなりませんが、財政事情からみて「庭作」はできても、「木守」、「庭掃」に大きなコストをかけることが益々困難になってきています(このため、市民参加の枠組みを作ろうとしています)。また、「庭作」はより安いコストで、あるいは元が取れるなら金をかけてもよいと考えています。  こういった社会情勢の中だからこそ、専門家が専門家として仕事ができる環境を作り上げていかなければなりません。 3.西洋の発想と日本の発想  西洋=欧米の思想が今や生活、経済、学問の隅々にまで浸透しており、これがグローバリズム(地球主義)として、わが国でもスタンダード化されようとしています。  緑づくりの分野でこの欧米化が急速に進んだのは、やはり日本が高度成長を始めてからです。これはあちこちで大規模な公共緑地の造成が始まるのと軌を一にしています。  西洋の庭園というとまず頭に思い描くのはベルサイユ宮殿などにみる幾何学整形式庭園です。このような幾何学整形式庭園はフランスのみならず、イタリア、スペインなどでもみられますが、ヨーロッパの単調な自然風土の中で発達してきた様式だとされますが、もともとの起源はギリシャにあります。ギリシャの奴隷制社会を支配する階級に生まれた知識人たちは、支配側の正当性を神に頼らず、論理、哲学に求めました。その中で見いだされたのは「発展」の思想であり、幾何学性の内に潜む「美」でした。規則性、対称性における美のあり様は現実の庭園に生かされることとなりました。  一方、遊牧社会の伝統の中で、個人の自立性はもっとも尊重される美徳となりました。同時に、さまざまな社会的要因の複合によって、日本のように柱で屋根を支える軸組みの家屋ではなく、合成パネルなど(かつて西洋では、レンガや石材)で作る壁組みの家屋を徐々に作るようになっています。これらは、日常生活において、「不連続性」を肯定する文化を生み出してきました。  つまり、「自他を区別する」価値観が文化的規範として成立しているのが欧米の思想ということになります。  この文化的規範が規則的、幾何学的な美意識と融合しながら、西洋のさまざまな幾何学整形式庭園を作り上げてきたと理解してもよいのではないかと思われます。  ここでは、植栽は人間の頭脳がデザインした美に向かって構成されており、地被類や中、低木は線形を成し、高木はモニュメンタルな大小の点となります。こういった庭園では、人間の存在は、あくまでも「美の観察者、認識者」であり、庭園の構造に対して対置的、対立的な存在です。庭園内では、動線はあくまでも観察通路であり、この通路は庭園の幾何学性を補強しながらも、観察者にとっては、水族館の通路と同様に、水槽の一部を構成するものではなく、植栽空間とは異なった空間を構成するものとなっています。 (ちなみに、江戸初期に多く造られた大名庭園も回遊式の散策道を中心とした自然と観察者を対置させる構造と言えるかもしれません。)  このことの意味は重大です。通路を歩く人間と植栽空間の間には、明確な「不連続」を置くという設計となっていることです。つまり、人間と自然との間に「バリヤー」を設ける思想が息づいているということになります。  ちなみに、文化的には遅れていたイギリスでは、形式主義的なヨーロッパ本土の庭園への反発から、18世紀になって盛んに自然風景式庭園という様式に基づく造園がなされるようになってきました。その後、世界中の植民地から持ち込まれた多くの植物を加えて、色とりどりに雑然とした空間構成の庭ができあがりました。最近,日本でも流行のイングリッシュガーデンはこの系譜を引くものです。  自然風景式庭園は、田園の樹林と牧草地、畑、水辺が織り成すバランスの美を庭園の中に実現しようとした、一種の自然回帰主義的な庭です。ヨーロッパ本土とは異なった形式ですが、共通した思想がその底辺には流れているようにみえます。  つまり、自然形の樹林が存在するようにみえながらも、膝から上、頭の高さに至るまでの見通しが十分に確保されていること、樹木、池、芝生などを一つ一つの部品として、観察者から一定の距離をおきながら、バランスの美の中で再構成しようとしていることなどは、人の回りから自然を排除するとともに、自然をあくまでも観賞の対象として設定しようとしているところは、幾何学式庭園のもつ自然と人との対置という思想と合い通ずるものがあるのではないかと思います。  こういった西洋式の庭園とまったく異なった思想をもつものが日本庭園です。  日本庭園の表現形式はきわめて多様です。あるところでは、磯浜、渓流、滝を模す自然の凝縮を追求しながら(磯浜石組、流れの技法、滝組)、別のところでは、これをどんどんデフォルメした抽象的表現としての枯れ山水があり、また違うところでは、宗教思想の表現としての浄土式庭園などを作っています。  自然を模した庭園は、イギリスの自然風景式庭園と似てはいますが、本質的に大きく異なります。  日本庭園では、作庭師が、自然を構成する骨格を自然の中から抽出する涙ぐましい努力を行った様子を感じとることができます。この骨格とは、人が自然にあって美しいと感じたことの要素をいかに限られた空間の中で再生しようかという努力の後でもあります。  そこでは、樹木にも石にも顔と背を区別し、見られる角度を意識しながらも観賞者の存在をその庭の構成の外には置いていない。つまり、すぐれた日本庭園は観賞者がいようといまいと庭自体が一つのまとまりとして魂を持つように考えられているわけです。これは、「伝い」や「仕切り」などバリヤーとなりやすい空間の中でも通路となる空間が孤立しないような一体感によって設計されます。この一体感は、途切れることなく庭全体、あるいは軸組によって空間を開放された家屋をも含む全体へと広がっていきます。  すなわち、日本の造園技術の中で培われてきた伝統とは、自他を区別せず、連続しながら移り行く有形無形の自然の凝縮であり、対置的に置かれた素材も、対象と観察者も、すべてが全体として一体性をもつような構造を生み出そうとするものだと思われます。  この一体感は山に似ていて、山は自ずと人為に境界を引くことなく一つのものと認識されます。一方、西洋の庭園の場合は、平野の文明であるがゆえに、人為で引かれた境界を必要とするのかもしれません。  境界=バリヤーの存在は、ただ単に垣根があるからバリヤーがあるとは考えないで下さい。垣根があってもバリヤーフリーであることもあるし、垣根がなくともバリヤーがあることもあります。  例えば、園路(通路)沿いに帯状に列植された地被類は、それがいかに背が低い植物であったとしても、明瞭な境界を形作り、見る側と見られる側を分け隔てることとなります。この結果、子供達は、五感を使った緑との多様な関わりを奪われ、老人は包容感の乏しい空間に取り残されることになるわけです。  高度成長の中、大規模な土木造成が行われ、そこで熱狂的に迎えられてきた緑づくりの思想とは、実に西洋式庭園の思想でした。  なぜなら、この作庭術が幾何学的、規則的であるがゆえに、数量化しやすいこと、現場の工夫を必要としないことにあったからです。  設計者が現場も見ずに図面を引き、図面通りやっておればできる緑づくりであったからこそ、全国どこでもだれでもが施工できる一定の水準をもった公共緑地が生み出されてきたわけです。  この結果、緑化に係る業界は大発展してきましたが、造園技術は衰退していきました。_